速度1000倍、誤り100分の1──量子の誤りと闘う3つの戦線
量子コンピュータの実用化を阻む最大の課題は、微細な量子状態が環境のわずかな揺らぎで壊れる「誤り」だ。2026年9月、この問題への対抗策が三つの方向から報告された。英サリー大学の超流動ヘリウムを使ったキュービット設計、スウェーデン・チャルマース工科大学の1000倍高速な量子操作、そして米IonQによるリアルタイム誤り復号の実証発表である。本記事では、それぞれの原理と、予測と実証の間にある距離を整理する。
「電気的に中立な液体」は電磁ノイズを寄せ付けない
量子コンピュータの演算を担うキュービット(量子ビット)は、電気的な擾乱にきわめて弱い。現在主流の超伝導キュービットは、電磁ノイズや迷電荷──髪の毛が風船に張り付く静電気のようなもの──のわずかな刺激で量子情報が乱される。キュービットの数を増やすほど誤りの制御は難しくなり、スケール化の壁となっている。
英サリー大学の研究チームは2026年9月7日、npj Quantum Information誌に掲載された研究として、超流動ヘリウム3を基盤にした新しいキュービット「SHOQ(Superfluid Helium Oscillator Quantum)」の概念設計を発表した。超流動ヘリウムは摩擦なしに流れる特殊な液体ヘリウムで、電荷を持たない。この「電気的な中立性」により、超伝導キュービットを悩ませてきた一部の電磁ノイズから構造的に守られると、チームは説明している。
チームの計算では、SHOQの誤り率は従来型の超伝導キュービットと比べて約100分の1になると予測される。超流動を基盤とするキュービット設計の報告は、これが初めてだとしている。研究は米ノースウェスタン大学のJens Koch教授との共同研究で、同教授は現在広く使われている超伝導キュービット「トランスモン」の開発者の一人である。
ただし、これは理論提案だ。主著者のPriya Sharma博士は「数学はうまくいくと告げている。次のステップはプロトタイプを作り、予測を試すことだ」と述べており、実験による検証はこれからになる。チームは英国のIAA Commercialisation Fellowshipの支援を受けて試作に着手する方針を示している。動作には極低温が必要だが、必要な条件は超流動ヘリウム3の研究ですでに実験的に達成されているとも指摘されている。
遅さ自体が誤りを生む──操作を1サイクルに圧縮する
誤りへの対策の対象は、キュービットの材料だけではない。操作の「遅さ」も誤りの原因になる。量子操作に時間がかかるほど、外部からの擾乱が入り込む機会は増える。つまり、速度は信頼性と直結している。
スウェーデンのチャルマース工科大学は9月、Physical Review Letters誌に掲載した理論研究で、幅広い量子操作を従来より1000倍以上速く実行する方法を発表した。対象は「ボソニック符号」と呼ばれる方式で、量子情報を個々のキュービットではなく、超伝導回路内のマイクロ波場に蓄える。この方式は、特定の種類の誤りに対して強い保護を提供できるとされる。
これまでボソニック状態の生成と制御には、数千回の駆動サイクルの繰り返しが必要だった。各サイクルは、外部擾乱が計算を乱す機会でもある。主著者のLei Du氏らが今回用いたのは、同チームが提案した「量子ラティスゲート」という万能ゲートセットだ。レンガを一つずつ積み上げる代わりに、プレハブのモジュールを組み合わせるように、多様な操作をわずか1回の駆動サイクルで完了できる。共同著者のTangyou Huang氏の説明を借りれば「間違いを犯しながら一つずつレゴの城を組む代わりに、あらかじめ組んだモジュールを素早く接続できる」という。この研究も理論段階であり、実機での検証は今後の課題だ。
計算しながら直す──リアルタイム復号への産業界の動き
大学の理論研究に対し、産業界は実機の展開で誤り対策を進めている。米IonQ(NYSE: IONQ)は9月23日、NVIDIAが設立した量子研究拠点「NVIDIA Accelerated Quantum Research Center(NVAQC)」に自社の量子コンピュータ「Superion 256」を配置すると発表した。同拠点における最初のオンプレミス配置になるという。
同時期にIonQは、業界初と自称するエンドツーエンドのリアルタイム量子誤りデコーダを実証したと発表した、と投資メディアのNAI500が報じている。誤り訂正では、補助的な測定から得た「シンドローム」を読み取り、どこで何が起きたかを推定する「デコード」を計算中に繰り返す必要がある。この処理が追いつかなければ訂正は間に合わない。リアルタイムデコーダの主張は、この律速段階への回答を意図したものと見られる。ただし、これは企業の自己評価であり、独立した検証結果はまだ公表されていない。
予測と実証の間にある距離
三つの発表は、「誤りをいかに減らすか」という同じ問題に、ハードウェア(材料)、操作方式(速度)、システム(復号)という異なる層から取り組んでいる点で共通している。
一方で、それぞれの立ち位置の違いは明確だ。サリー大学のSHOQは試作前の設計であり、約100分の1という誤り率は計算上の予測にすぎない。チャルマースの高速操作も理論研究である。IonQの発表は実機に基づくが、企業による自己申告だ。数値の性格が三者三様である点は、評価の際に区別すべきだろう。
方向性としては、むしろ補完関係にある。サリー大学のEran Ginossar准教授は「1種類のキュービットですべてをやる必要はない。異なる量子技術を組み合わせることで、それぞれの強みを活かせる」と述べており、論文でもSHOQが将来的に超伝導技術と統合され、量子メモリを担う可能性が示唆されている。誤り率の低い素子、速い操作、速い復号──三つの改良が掛け算で効けば、フォールトトレラントな量子計算への道は短くなる。ただしその効果は、現時点ではまだ予測の域を出ない。


